結婚した。おれたちは一度も会わずにそれを決めたのだった。結婚にもいろんなかたちがある。おれたちのした結婚は、一緒にいない結婚なのだった。共に暮らさない、会わないどころか連絡も全然とりあわない。気が向いたときにちょっとしたメッセージを送るくらいだ。内容は他愛ないもの。ときどき、深刻なもの。家族に挨拶もしないし友達をまぜてのパーティーだってしない。もちろん子どももいらない。これを言うとまわりには驚かれる。結婚した意味がない、と言われる。そうでもない、とおれは思う。おれだけではなく、相手もそう言っていたから、おれたちはこうした。おれは相手の言うことを信じた。おれたちは離れていて言葉くらいしか尽くせないから、それを信じた。相手もどうやらおれを信じているようで、おれたちの間にはけんかはあっても決定的な齟齬だけは生じなかった。おれにはおれの仕事があり、叶えたいことがあり、ひとりの家の維持があり、おれの孤独とよろこびがあった。相手にもおれとは違う仕事があり、夢があり、相手のための家があり、相手だけのさびしさとしあわせがあった。それは不可侵だった。それでもおれたちにはどこか何かが足りなくて、それは自分だけではどうしようもないということに気づいていた。おれたちは互いを少しだけ助けるために手を取りあった。それはおまもりのようなもので、ふとしたときに存在を思い出すと、それだけで気持ちが落ち着く安定剤になった。きっと相手にはもういい人ができているよ、都合よく利用されているだけだよ、もっといい人が見つかったらそばにいたくなるよ、これでは風邪をひいても看病してもらえないよ、おまえだって相手が死にそうなときそばにいてやれないよ、結婚したという事実だけがほしいのならやめておけよ、おまえも相手もひとりだよ、いつまでも、いつまでもひとりだ。周囲からあふれる忠告とも意地悪ともつかない言葉がやむことはなかった。確かにおれたちはひとりだった。還暦を迎える頃に訪れた病院で、おれは自分の寿命がもう長くないことを知った。医師に匙を投げられたおれは、たったひとりの伴侶のことを考えていた。看護師たちの、おれに対する哀れみがさざなみのように病室に忍び込む。おれは終の寝台で、肌身離さず持っていた婚姻届のコピーを広げた。携帯電話の電源を入れ、これまで相手からもらったメッセージを読み返した。最後の連絡は三ヶ月前のもので、内容はお中元についてだった。そういえばメロン味のかき氷が好きだと聞いたことがあるのを思い出した。もしあの世があるのなら作って待っていようとそう思った。おれたちはとっくに、互いを構成するパーツのひとつだった。大役すぎず、かといって替えがきくものでもなく、ちょうどよかった。初めて出会ったときから長い年月が経っていた。相手のさびしさとしあわせを思う。おれの孤独とよろこびを思う。おれはひとりだった。結婚してよかった、そういう思いがぱちぱちとはじけて心から染み出して、おれはまばたきを繰り返す。もうすぐ夜がくる。

おまもり 190623