ここはどこだ、恋人は運転中に出し抜けにそう言う。たとえば見慣れた薬屋のある、大きい国道の、十字路の交差点の、あるいは行きつけの本屋を通りすぎた先、住宅地に入る少し前、ときには母校の前の交通量の多い道にて。信号が赤なので止まったときに言う。ここはどこだ、と、大真面目にそう叫ぶ。なまじ声が大きいので初めて聞いた人はひどく困惑するらしいが、私はというと交際前から彼のことを知っているために慣れている。黒い服に包まれた彼の腕がまっすぐにハンドルを握りしめ、お気に入りのごつごつした靴を履いた足がブレーキを踏み込む。私たちは慣性の法則に従って仲良く傾いてまた進行方向を見る。彼の黒い髪が揺れてひたいが見える。そして彼は驚いたように私を振り向いてもう一度言う。ここはどこだ。
 私は記憶力がよく、こと道に関しては間違えることがない。一度見た風景ならばそうそう忘れない。だから私は恋人に答えることができる。ここはどこだ、恋人が隣で言うたび私は答える。ここはまるきば町四丁目三番地。彼は納得して、首を上下にゆっくりと一回だけ振り、再び運転を始める。青になっていた信号が頭上を通り抜けてゆく。ここはどこだ。しばらくしてまた彼が言うので私は答える。ここはネ市に入ったところ。ここはどこだ。ここはくず川のほとり。ここはどこだ。ここはヤサカダスーパーの前。私はよどみなく答える。そうこうしているうちに白い屋根と黄色の壁の家に着く。駐車場のなかに車をつっこんでから彼はまた、目をみはってこちらを振り向く。ここはどこだ? 私は答える。ここはヨイ町カカウそのだち十二の三十五番地、私たちの家。彼は大きくうなずいた。ああそうだと笑った。シートベルトを外す間、先に車を降りていった彼が玄関で叫んでいるのが聞こえる。ここはどこだ。私は答える。そこは玄関。私たちは今日も同じ家に帰り、同じ部屋で眠る。

ここはどこだ 191020