さて、恋捨山は今日も晴れていた。ここを墓だと言うひともいて、それはこの景色を見れば言い得て妙どころか本質だろうとわたしは思う。足の裏、靴底越しに小石を感じて一度立ち止まってから大地を確かめ、また歩き出す。目指すは山頂である。わたしたちは恋を捨てて旗を立てる、それはこの近辺ではもう何百年も昔からのあたりまえだった。植物が一切ない剥き出しの岩場には色とりどりの旗が立っていて、しかし旗はどれも褪せている。そのセピアが教えてくれるとおりここはあくまで捨てていく場所であるので、わたしたち命は誰も歓迎されない。ここは新しく何かが生まれたり訪れたひとが何かを得たりするところではないのだ。わたしたちは失う。自ら失うことを欲してここへ訪れる。ここは失うための場所である。曇り知らずの平板で退屈な日光は木々に遮られることなく山に降り注ぎ、かつては鮮やかだった旗たちの若さを奪い、彼らが薄汚れた襤褸切れに近づけば近づくほど時はめぐり、やがてわたしたちは捨てたもののことを忘れる。
恋を捨てるとひとは楽になる。もちろん恋があればあるだけ生きるちからの源になるというひともいるが、そういうひとはそもそもこんなところに寄りつかない。とにかく事実として口減らしや姥捨ての伝説と同じように恋はいにしえから捨てられてきた。そのあたりにぽんぽん捨てるとじゃまなのでこのように、山に。生きるためには必要のない、それどころか負担になる恋もある。だからわたしたちはそれを手放す。まだ息の根のあるのはむりやりくびり殺すか、崖から突き落とすか置き去りにすることで飢えさせるか、やることは人間に対する乱暴とそう変わらないのだ。人に対してそれをすればたちまちお縄だが、恋に対しては暗黙の了解でゆるされる、みんな咎めあったりしないというただそれだけだ。一年前にここで恋をひとつ捨てたばかりの友はわたしにいろいろと教えてくれた。泣き叫ぶ恋を友は無視して振り払ってきたのだと言っていた。恋にも無口なものとうるさいものとさまざまいるが、彼の恋は自己主張が激しくてそしておしゃべりだった。彼は後ろ髪を引かれる思いを非常に強く感じたらしかったがしかし、恋を振り切った。彼の恋はそのあとたぶんすぐ死んだ。この山に彼が立ち入るところはあれから一度も見ていない。
恋捨山では誰かとすれちがうことはほとんどない。示し合わせたはずでもないのに混むことはない。みんなだいたいひとりになる。わたしはそれが好きで、ひとりになりたいときはいつでも恋捨山に来ていた。捨てられた恋だけが眠る山はほんとうにしんとしていて、ひっそり冷えた岩肌によく似合う空気を漂わせていて、わたしの体にはその景色や空間がふだんの生活よりよほどなじむ。恋だって死んでしまえばみんな一様に静かになる。騒いでいるのは風にふかれた旗だけだ。
そのあたりの空気がひとつひとつ独立した自我をもってそわそわと浮き足立っている。わたしが恋を捨てに来たのではないかと期待している、その期待は旗を鳴らしてひとつところで合流し大きな塊になり、わたしの足が腕がそれを切ってそうしてわたしは何度でもこの山の空気を味わう。進行方向の遠く、ひときわ黒く長く細い影がにわかにそびえる。ぱっと心を通過するその細い影はねばりけのある音を立てるので、恋を捨てるかもしくは捨てた恋の供養のために来た他人の影だ、とわたしは何となく気づく。身に纏う服をはためかせ、うなだれながらぼうっと突っ立っている姿は一見そのあたりの旗と見分けがつかなかった。わたしには供養するほどの恋はない、そもそも恋を捨てたこともないし、恋自体にも縁がない、わたしはここに用がない、ただ静けさを求めて立ち入るだけ、言うなればただの冷やかしだ。こんなに居心地がよくても恋捨山は決してわたしの居場所ではない。ここは恋を捨てるための山、捨てられた恋が眠る山である。捨てられた恋だけの楽園である。楽園はいつも透き通るほど晴れていて、しじまにはぱたぱたと布の翻る音ばかりが広がっている。
恋捨山 200720
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