その喫茶店に花は置いていないのだが、店主がめっぽう変わり者で、店名は「火星」であるくせに、割り引きの合言葉はというと花の名前だったりする。メニューはひとつ、コーヒーセットのみ。湯気をあげるコーヒーについてくるケーキは店主お手製のバタークリームケーキで、アラザンはきれいだがアンゼリカが苦い。食べ終わった客は店を出る前にカウンターで花の名を言わなくてはならないが、花の品種名ならなんでもいい。合言葉というくらいだから一様に同じことを、たとえば店主がバラと決めたのなら客もバラと言うようにするだろうに、そうではなかった。
 私が観測した限りだが、火星に来る客も変わり者が多い。好きな花なのか、毎回頑固に同じものを言い続ける者もいるし、毎回変わる者もいる。サクラやモモなど美しい花を咲かせる樹木の名前ばかりひたすら唱える者もいれば、タンポポだの雑草ばかり答える者もいる。季節で揃える者、生息地で揃える者、どこからどう聞いても無秩序な者。やたら難解な長い名前ばかり答える者、和名に拘る者、思いつかないのか窓の外を見て答える者、アサガオと叫ぶ小学生。どれも花には変わりがないので店主はなんでも割り引きしてやっているようだった。どんな花もこの火星では、コーヒーセットを割り引きしてくれるという一点において平等なのだ。
 火星の扉は観音開きで、とても重い。開けると取りつけられたチャームが景気よく鳴るが、それに反して中はとても暗く、湿っており、衝立のステンドグラスは魅力を出せずにただつったっている。コーヒーサイフォンの音が鼻の骨に響く。私は筋だらけのアンゼリカを奥歯で潰し、ディモルフォセカ、ヘレボルス、デルフィニウム、アザレア、カサブランカ。カウンターに向かって呟く。私はいつも、ほんものの火星がいつか私たちの花であふれかえる光景を夢想している。

火星は花盛り 210426発表(191020制作)