怪獣アーについて詳しくはだれも知らない。アーという怪獣がいるのだとそれくらいしかわからない。アーがいるので、オーもいる。イーとウーとエーはいないが、カーはいる。オーについて知りたいと思ったならまずはアーについて学ばなくてはならない。私たちはアーのことを知らない。アーはすべての前提で、根源で、原初だ。
 空のテクスチャをピンセットでつまみあげ、心臓に貼り付ける。ふだん放置されがちな粘膜がぞっとしながら喜んでいる。私の書いたアーについての論文は先日、音を立てて鳥に変わってしまった。とおい森へ帰りたいのだと頼んでくるものだから、その言い募りがあんまりに切実に感じられたものだから私はいいよとゆるした。アーについてもし、知ることがあったら、私に教えておくれ、とそう託して。鳥は南へ消えた。私と私の仲間たちは手を振らずに見送った。きっと戻ってくると信じた。たとえ戻ってこなくても、期待することは(みじめにすがりつくことは)鳥への愛だと思いたかった。それはちょうど、まだ見ぬアーに恋い焦がれるのと同じぐあいに。
 アーについて書かれた文献はそう多くなく、調べようと決意したら、ひとつの図書館で用事はことたりてしまう。かつてアーを攩網で捉えようとした者がいた。攩網は、研究者が回収しようと集まった頃には破けていた。アーと会話だけでもしようとアーのための言語を編み出した者がいた。アーを喜ばせようとうたを作った者がいた。アーに捧げようと花かんむりを編んだ者もいた。アーがそれらを通過したのかどうかわからない。海とみずうみのどちらをアーが好むか取っ組み合いのけんかをした者たちもいた。騒ぎがその街の防波堤を踏みつけて、踊って、アーを呼んだ。そのあいだに空は何回か絶望をしたらしかったが、太陽にはかわいいとしか思われなかった。呼ばれたアーはというと、まだけんかを続けていた者たちの光だけ食べていなくなったらしい。しかしそれについてきちんと証明できる見物人は一人もいないのだ。アーの足音。アーの呼気で凍る国々。
 アーのとおりすぎたあとには童話が残る。たぶん。私たちがそうしてしまうから。アーについて載った図鑑は現れないが、物語はどんどん増えていくだろう。寝る前のなぐさみに子どもたちはアーを知る。夢を渡ってアーは育っていくだろう、大木のように、焚き火をあざわらい、暖炉に身を隠し、戸棚の食器をふるわせて、私たちとともにあるだろう。これも、たぶん。ほんとうのアーについて、私たちは何も知らなすぎる。私たちについてアーがどれくらい把握しているのかもわからない。アーなんて怪獣はどこにもいないのかもしれない。私たち、おろかだ。それでもアーのことが好きだ。私たちはみな、例外なく、アーを愛している。
 
怪獣アー / 不可村 / 230915 / Repost is prohibited.