さしあたっては地面の下で動き続ける彼をどうするかが問題だった。もうすぐ春が来るが、私はまだ衣替えの「こ」の字も手懐けてはいなかった。地面の下の彼について考えるのに忙しく、衣替えどころではないのだ。着た切り雀の服はそろそろ箪笥の奥で休みたがる。木の芽が膨らんでいる。そして地面の下の彼はというと、私の事情などひとつもお構いなしに動いている。好き勝手移動している。目で見えるわけでもないし音がするわけでもないがわかる。土の形を変えることなく、ただ動いている。何を考えているかは確認のしようがないので知らないが、どうあれ私は落ち着かない。うっかり彼を生きたまま埋めたりするからこうなった。私の落ち度だった。
食事のために卵を買いに行く道すがら、もうすぐ赤ん坊が生まれるという人に出くわしたので安産を祈る。天気はまったくの青と、白と、浮かれた光なのだった。知らない人ではあるが無事でいられたらいいと思う。本心だ。思わなくてはならないと思う。きっちりと書き込まれたプログラムのように私はそのように行動する。もう、私には、余裕がないのだ。彼が動いている。彼の足にある五本の指がばらばらに開くのがわかる。ようやくたどり着いたスーパーマーケットの店員からは卵を素手で、なんの容器にも入れずに渡される。不用心だと思う。不衛生だとも感じる。しかし何も言い返せない。地面の下で彼が動いているのがわかる。
渡された卵を仕方なしに服の裾でくるんで腹に抱えながら、ふと彼に水責めでもしてやりたい衝動に駆られる。蟻の巣に子どもたちが水を注ぎ込んで待っている、今か今かと自分たちのなしたことの行く末を知りたくて地面を見つめて立っている、それと同じ。いやもっと切実かもしれない。私は彼の息の根を止めなくてはいけないのだ。彼は今に地面の下からこちらへと戻ってくるかもしれない、何をされるかわかったものではない。彼は、私が彼を地面の下へ追いやったことをきっと恨んでいるだろう。許しはしないだろう。彼が動いている。私は卵を腹に抱えて逃げるように走る。帰り道をひた走る。顔が真っ赤になっているのがわかる。鉄板のように頬が熱い。暑い。汗が染み出してくる。地面の下の彼が動いて一緒に移動しているのがわかる。
家に到着して、嫌な予感がして俯くと服が黄色く汚れていた。何もかもにうんざりして服を脱ぎ捨てる。その勢いのまま衣替えをしてしまう。彼が動いているのがわかる。近所の公園から遊具を揺らす子どもの声がする。日が傾いてきている。
私と彼の関係性はさっき行った店のようなものだった。進化しすぎた田舎のスーパーマーケットには何でもある。私と彼にも何でもあった。私はそれにうんざりしてしまって、小さな雑貨屋に通いたがる人、遠くの立派なブランド店を贔屓する人、なんでもいいからスーパーマーケットですべて揃える生き方以外をしたかった。彼は父であり、母であり、私の妹で、姉で、弟で兄で、双子の片割れで、失ったペットで、すぐそばにいる幼なじみで、ライバルでありながら喧嘩仲間でもあり、気の置けない大親友で、とにかく何もかもだった。私はうんざりしていたのだ。どんな冬があってもまた必ず春が巡ることを悲しむかのように、季節に逆らうかのように彼の顔を見るのをやめ、会いに行くのをやめ、私を追いかけてくるのがわかれば逃げた。彼を埋めてしまえばすべて変わると思ったのだが見込み違いだった。まず命を奪うべきだった。情けをかけて生かしておくのではなかった。地面の下は生きたまま行く場所ではない。しかし、今から訪ねていってどうにかなるものでもない。私は彼に会うわけにはいかない。
彼がまた動いているのがわかる。私はあたりを見渡して、部屋の中に何があるかを確かめる。散らかった衣服。育てている植物は最近水やりを怠っているために枯れかけている。テーブルに椅子。捨てるのを忘れているごみ。コンクリートに板が打ち付けてあるだけの床を叩く。手が痛くなる。外にもう一度出る。玄関に置きっぱなしにしている籠、使っていない自転車。下水に繋がる排水口を見つけ、私はそこに石を置いた。そこから酸素が地中に漏れているに違いなかった。かくなる上は彼を窒息死させるしかない。こちらに戻ってくる前に先手を打たなくてはならないだろう。マンホールの穴に粘土を詰める。隣家の前にあるマンホールにも同じ処置を施す。その隣も。虫の穴、もぐらの穴、ねずみの穴。ひとつずつ塞いでいく。まだ十分ではないようで、地面の下で彼が動いている気配がずっとしている。私が何をしているのか気づいたのだろう。せっせと穴を探しては埋める私の上、空はこれでもかというほど晴れていて、夕暮れどきに差し掛かったというのに日差しは暖かい。春がすぐそこに来ている。そして彼はどこにでも行ける。地面の下は空と同じで道も垣根もないからだ。私は逆を望んだのではなかったか? 彼を地面の下に追いやれば、彼はどこにも行けなくなるはずだった。そんなことはなく、彼は生きたまま地面の下で蠢いている。私はというとなすすべなくどこにも行けずにひたすら穴を塞ぐだけだ。もうすぐ春が来る。見える穴すべてを埋めたのに、彼は平気なようでまだ動いている。
地面の下で彼が動いている/不可村/250309/Personal use, Reproduction, or AI Learning is prohibited.
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