たとえばパンドラの匣だとか玉手箱だとか、箱の出てくる話はいくらでもあるものだ。古今東西において箱は人気者である。物語で箱はもれなく重要な役割をもって登場する。この国の人間にとっても箱は大切なものであり、ふつう、肌身離さず持ち歩くとまではいかずとも、みんな箱をすぐに取り出せるところに置いているし、箱の中に入れるべき幸せとはなんなのか子どもだってわかっているものだったが、私の箱は長らく空だった。入れるべき幸せがどれなのか判断がつかなかったのだ。
 初めての恋人ができた日、相手は私に幸せだと言った。箱を空にしている私のことが不憫だったのか、これが幸せというものだ、と相手はそう教えてきた。相手は私の箱に幸せを切り分けて入れた。私はおとなしく受け取った。箱に余裕を残して入る程度のものだった。次の日、会社の上司がケーキを配っているところに立ち会った。上司はケーキを私の箱に入れた。手のひらに載るくらいの大きさの幸せだった。友人たちが休日示し合わせて買い物に行こうと言うのでついていくと、彼らは買った服のいくつかを私の箱に寄越した。私は服をたたんで箱に詰め込んだ。服はうすく小さくなって仕舞われた。幸せというものは意外とそこらじゅうにある。幸せは切り分けられる。私の分だけ取り外すことができる。箱に入れることが可能なくらいだから当然といえば当然だ。私の箱はすぐにいっぱいになった。寄越される幸せは減らない。
 箱はしまらなくなった。はみだしたり飛び出したりした幸せをそのままにしていると、今度は箱からこぼれはじめた。勢いはなかなかとまらず、あふれかえった幸せはそのあたりを埋め尽くして歩行を妨げる。私は腕の中の箱を何の感慨もなく見つめる。留め金や蝶番がばかになった箱はだらしなく口を開けて伸びていた。少しだけ揺すってみる。箱からはなんの音もしない。底を見ようと思って覗き込んでみたが、幸せが邪魔をして何も見えなかった。私の箱は私の幸せでいっぱいだった。そのうち私は箱以外の私物を捨てた。今では家の外に出ることもできないが、生活はそこそこ快適である。

しあわせのうつわ 191111