いよいよ誰かを呼ばなくてはいけなかった。葉には斑点が浮き、彼らに終わりが近づいていることを如実に表していた、つまりはそんなことがわかってもわかるだけでわたしにはどうにもできはしないとそれだけを叩きつけられる日々だった。そろそろ、わたしではない誰かの知恵が必要なのだ。夏も近いために植物たちは病の身でありながらも賢く浮かれており、その様に溜息をつきながらわたしは水を遣ったついでに柵と錠前の手入れを済ます。花野のぐるりをめぐる有刺鉄線は胸を撫でおろすのにじゅうぶんなほど変わりなかった。あまりにはかない花々を囲うそれらはこの胸の執念をそのまま形にしたような棘で、それでも、わたしは心もとない。
 風そのものは無音で花園を抜けていく。風にさわられたものの上げる悲鳴とにおいをみとめてやっと、風がそこを通ったことに気づく。等間隔に伸びる支柱にたくさんの花壇、鉢植え、畝。棚田のごとく色彩が広がっている。もう長いことこの足以外は知らない地面の荒々しいにおいが、支柱に沿って立ちのぼっては風に運ばれる。せっかく集めて取り付けた鈴なりの錠前を、かけた張本人のはずのこの手がはしから外していきそうで、切り落とすべきだと感じるが思いに反して棒切みたいにこの手足は役立たずのままだった。本音を言えば天幕でもなんでもほしいのだ。ここにわたし以外誰も立ち入らないと心底安心できるなら、背後にそびえるわたしたちの学園ごとこの花野を一瞬にして爆破でもしてしまうのがいいのかもしれない、そういっそひと思いに。回復など夢見ずに、斑点が花より早く数多くこの地を覆い尽くす前に楽になるのがいい。手始めにこの意識を消してしまえばいいかもしれないとすら思い詰めはじめている。特に彼女と出会ってからはもうずっと。

 手足。
 目が合うたびに彼女の足を愛用の如雨露の取手や首そっくりだと思う。学園の窓から彼女が、この、わたしだけの花野を見るのと同じ熱を持った視線を、誰かに取られることを待つようにすんなり伸びる彼女の手足にわたしも負けじと絡めている。音のない攻防ばかり繰り返して何ヶ月経ったのかさだかでないがいよいよ正気でない。たぶん、クラスメイトとして初めて顔を合わせたときからだ。彼女の手を引いたところで足りないだろうとわかっていたし、どうしたって憎しみのようにひかるこの心の熾火を消せないことも知っていた、それでどうして往生際悪く彼女のことばかり考えるのか、幼い頃何度も通った商店街の文具屋に並べられた一生買わないだろうファイルたちの影が寝る前にちらつくように彼女に呪われている。そうでないならこちらから呪ったのだ。そんなものひとりでに成立するのだから。
 花野を滅ぼすふんぎりがつかないならいよいよ誰かを呼ばなくてはいけない。その誰かがいったい誰なのか、わたしがいずれ相手を崇めるにしろ罰するにしろ、その誰かはどうやっても彼女の顔をしている。消すべきは花野か、意識か、相手か、それとも理性なのか、わたしはそろそろわからなくなっている。ちょうど花野に終わりが近いように。

 ずっ、と音を立てて喉に彼女の脚が滑り込み、心臓のちょうど裏側をつま先でなぜている、
 白いにおいがする。
 如雨露の穴から滲み出してきたにおいは少しずつ脚のかたちになってそこから彼女が形成されるのだ。わたしはそれをひとつずつ、ひとつずつ、丁寧にひねるように抱きしめて、水を入れてやる。なじっては撫ぜを繰り返すと彼女の脚先からじんわり涙が滲み出して、きっとそれが花野を、

 手とは文字通りにただしく取手であるのかもしれなかった。繋いだあいだに想像していたほどの熱は行き交わず、互いの皮膚は袋のようにそれぞれのすべてをとどめている。いつもよりがちがち盛大に音を立てながら百はあろうかという錠前に鍵を突っ込んでは回し突っ込んでは回し、やっとのことで手を離しながら一人で先に転がり込んでそして振り返る。彼女は開け放された扉の向こうで突っ立っているだけだった。まだ何かが必要なのだ。たとえば許しによく似たものが。はっとして口を開けて一度閉じ、また開く。揺れているし濡れている。血だと思ったがしかし視界のどこにも予想する色はないのだった。学園からただよう、話しかけるように上がるピアノの音を耳が勝手に通してしまって、体のどこかが困り果てている。ゆるしたおぼえはないと細胞たちが同口同音に言っている。揺れて濡れているのはたぶん、この、このあたり、そう、これのせい。衣服の上から抑え込む。何度も擦ったから心臓から垂れているものがある、ああほらぼたりと落ちる。もう一度ぼたりと音がして地面が斑点模様になるのをみとめる間に、もはや当たり前になってきた感覚が心臓をこすりおろす。合図のように膝をつく。今まで己のためだけにあった地にゆっくりと、空を懐かしむ風船に振り回された糸や落ちていく重りとして破壊される今が完璧だ。
 あらかじめがよい。これから何が始まるにしても、許しはあらかじめがよい。
 ふたたび手を伸ばして相手のそれを握りしめ、そっとこちらへ誘い込めば、誰かに触れられるのがしっくりくるような、まるで掴まれるのを待っていたようなおかしな手は抵抗なくこちらの胸に近づくのだった。咎めるように一斉に騒ぎだす錠前の声と西日が花野に突き刺さる。初夏のうねりはこれまで育てた花々をあっけなく彼女のための飾りに変えるがそんなことは今更どうだってよいことだった。線を越えるすんなりした足は影と比べてどこまでも白々とけぶっている。わたしたちの成した斑点さえもうすぐ消える、花野はわたし以外を知る。

花野 210907