その日は、久しぶりの不安になってもいい日だった。いつでもどこでも不安になっていては生活が立ちゆかないものだから不安になってもいい日は予め決めておく。いい大人なので、そういう芸当もできるようになった。我ながら大したものだと思う。
 冷凍庫の中に入れておいた不安を取り出して時々のお好みの飲み物にゆっくり溶かしてその日の秒針がどの程度の速度で回るのか見ながら、飲んだり、やめたりする。腕を上げ下げする。不安は、食道を伝っていったり、胃壁に着地したりする。ミルクに溶けている。コーヒーに溶けている。ルイボスティーに溶けている。キウイのジュースに溶けている。マーブルにならない。目視はできない。じっと椅子に腰掛けていると、次第に、不安が血に染み込んで全身を隈なく旅し始めるのがわかる。この感覚は暮日がそのあてどない色を空へとうっかりこぼす様を見ているときの感覚に似ている。じわじわと不安になってくる。不安になってもいい日の本領が始まる。自覚し出す。飲んだりやめたりを何度か繰り返し、機械のように、キッチンの機械のように何度か繰り返し、完全に繰り返し、少しずつコップの中身は嵩を減らしていく。時計の短針が大きく傾いた頃には、椅子には立派な不安が座っているという具合だ。
 指先まで充溢する不安が本来色とりどりだということは、肉眼では確認できないが心臓に何度も波が押し寄せるからわかる。波は、息を吸えば喉の奥まで押し寄せ、決壊ぎりぎりで破綻し、気迫だけ扇状に広がりながら脳へ抜けていく。
 不安とはもはや嗜むものだと言う者さえいる。それでもまだ人々は行きつけの飲み屋で不安を頼む勇気を持たないので、店主だって当たり前のように仕入れないし、あまりにも美味しすぎるバーガーショップもカレーや丼物のチェーン店も材料に不安を使わない。不安は、ひとりで、嗜む。ひっそりと。誰にも提供されずに、永久機関として己から出たものを。大昔の紫煙やムーンシャインのように。個人的な楽しみだからと言い訳をしながら人目を忍んでは、他人と分け合いたがって不安を混ぜ込むパーティーに耽る者を知っていて、誰も話題にしないのだ。窓の向こうを見るとガラスに映った不安がこちらを眺めている。針の進みはさっき見たときよりずっと速い。

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