ゴビという酒は味が濃く、澄んで軽い水のような見かけによらず度数も高く、これが大事なことなのだがこのあたりではあまり出回らない。僕が売りに来なければ高層ビル街一帯を根城にする人間は誰もゴビを口にできない。ゴビはビル街から遠く離れた土地で作られる。ビル街はしぶとく、誰が整備をしているわけでもないのに現役の頃のように頑丈に輝いている。人間の数が減りに減ったことで起きたあきらかな変化と言えば単純に人影を目にすることが全然なくなったということと、そして世界から音が消えたことだった。人間は全員忘れていたが、地球という星はあんがい静かなのだった。ゴビのことを裏切り者だと言いながら(初めて僕からゴビを買ったとき、彼女はこんなものは水だろうと決めつけて香りも嗅がずに一気にコップ一杯のゴビを飲み干し、ひどい目に遭ったのだ)それでも好んで飲む女が高層ビルのひとつに住みついており、僕は彼女にゴビを売るためだけにミラーハウスのようなビル街へ分け入る。このビル街がかつて、コンクリートジャングル、と呼ばれていたことを考えると、そんな場所に住みつく女がゴビという酒を愛するという取り合わせはちぐはぐなようであり、しかしふさわしいようでもあり、僕はいつもとまどう。
 ゴビはガラスを思わせる。アクリルのようでもある。氷には似ていないが、かなり水に近い。ゴビは塊で飲む。しかし非常におとなしく、やわらかい。空気を板にするよりはやさしい。この世界と同調するようにゴビも静かである。味があるが匂いはあまりない。水のようなのに味が濃く度数もあるから、とてもではないが本当の水のようには飲めない。どう濃いかというと甘くもあり、どことなく辛くもあり、酸味もあるようで苦味さえ感じられ、飲んだ人間の多くは喉の上のほうを誰かにさすられたような感覚が残ると言う。癖が強すぎて水のようにはすうすう体に浸透したりはしないのだ。
 そう、ゴビを体に入れてぼうっとした客を見るのが、僕は好きだ。
 ガラスといえばビル街はどこもかしこも窓ガラスだらけだから、やはりゴビはこの街によくなじむのかもしれない。熱で歪み始めた大地と、僕の背負う大きな荷物と、酒瓶や甕をのせた荷車、足元に影より濃く落ちる汗、誰もいない迷宮のような摩天楼、ただっ広い最上階で待っている僕の客たる女。彼女はよく、僕がビルに入ってから彼女のもとへのぼりきるまでの時間をはかって遊ぶ。玄関先で荷車の向きを変える。窓ガラスに僕の姿が映っている。栄えに栄えただろうビル街、今立っているのはガラスの向こうでさえ僕一人である。ものいわぬビルの群れ、風を吸い込むゴビ、ここは挨拶もいらない無音の、無人の都会だ。からかぜが吹きつける。とつぜん、僕は僕のことがいとおしくなった。

ビルとゴビ 200209