有害性あり





 美術部員ではないがいつも絵の具を持ち歩き、毎日絵を描いて過ごしている。私の通う中学校には部活動そのものがなく、ほとんどの生徒はみな自我の有無さえ疑わしいほど大人しく、授業を黙って受け、足早に帰宅し一日を終える。私は朝も昼も放課後もやることがあって忙しい。私の絵の具セットはいつも汚れていた。私がいちばん使うのは黒の絵の具だった。黒を使うと視界が落ち着くのだ。あの日の放課後も、ちょうど黒を使っていた。バケツが黒くなったから水を換えようと廊下を歩いていたときに、彼女の姿を見かけたのだった。
 化学実験室で何か物色している人影はつい先月に転校してきたばかりの同級生のものだった。サイズがあっていないのか異様に制服が大きく、それで体が大きく見える。声をかけて、それでやっと彼女は私に気づいたらしかったが、挨拶は返してこなかった。彼女は奇妙なほど音のない無表情をしていた。やがて黒く小さい目が私の手元を捉える。それは絵の具セット? 問われて私は頷いた。そう、私は絵を描くから。説明したが彼女は絵には興味がなかったらしく、絵の具をよく見せてほしい、もしよかったら譲ってほしい、と頼んできた。私はつい答えに窮する。私の表情がどう見えたのか、ただがいやなら何かお礼をするから、と彼女は続けて言った。
 だったらあなたの家に連れて行ってほしい。
 気づけばそう答えた私を、彼女は特にいやがるそぶりも見せずに黙っていざなった。春の平たい夕日が私たちの影を伸ばす。もう他の生徒は下校してしまったらしく、昇降口にも門にも誰もいなかった。これはたぶん、キリコの絵だ、と私はこっそり思った。
 彼女の家は学校のすぐ裏手の土手に隠れるように建っていた。狭いコンクリート床の玄関で先に靴を脱ぎ、彼女は私を振り返る。どうぞ、という彼女の言葉を合図に私は薄汚れた敷居をまたいだ。短い家だった。彼女の通してくれた部屋に生活感を伴う湿り気はまったくなく、長いあいだ無人だったのだろう粉っぽい空気が散らばっていた。林立する棚の中を彼女と私は進む。棚にはたくさんの袋や瓶や箱があった。だいたいぜんぶにラベルがあって、彼女の手書きと思しき走り書きの字で何か記してあった。科学の資料集で見たような言葉ばかりがそこにあった。傷だらけの勉強机の近く、無言で振り向いた彼女に、私も無言で絵の具セットを渡す。彼女は机の上に絵の具のチューブを撒いてじっくり検分していった。絵の具なんて珍しいものでもないだろうと私は思った。彼女の指はやがて、ひとつのチューブにたどり着く。それは黒だった。そういえば黒のチューブには、オレンジ色の地にバツ印のマークがあって、下には「有害性あり」と書いてある。彼女はそれをじっと読んでいるようだった。私の荒い呼吸と鼓動がその場のすべての音だった。
 やっぱりいらない、とやがて彼女は私に言った。聞き返したが、いらない、もういい、とぶっきらぼうに返されただけだった。それきり彼女は机に向かい、ノートを出してそれに何か書き始めてしまう。とんでもない切り替えの早さだった。それから一度も彼女は私を振り返らなかった。私はのろのろと絵の具を手提げにしまいこみ、棚の林を抜け、外へ出た。夕日はもうどこにもなかった。
 彼女とはそのあとも学校の廊下で何度か擦れ違ったが、会話はひとつもなかった。彼女は大きく見える体でゆらゆらと歩いていていつも一人だった。一度も私を見ないのだった。
 数日後の朝のこと、ゆうべ火事があり、学校のすぐ裏手の土手近くの小さな家が全焼した、と私たちは教師に教えられる。そこに住んでいたはずの女生徒とその家族が行方不明だという。焼け跡からは違法性のある物体がいくつも見つかり、火事の原因はそれらによるものだろうと言われているらしかった。
 その日の放課後、私は美術室に保管しておいた今までの絵をすべて捨て、すぐに学校を出る。
 裏手の土手には警備員すらもいなかった。ひどい雨で今日の捜査は打ち切りになったのか、焼け跡は中途半端に放置されていた。立ち入り禁止の黄色いテープのすぐ下に玄関の灰色のコンクリート床が四角く飛び出している。私は肌身離さず持ち歩いていた絵の具セットの中から黒のチューブを取り出し、それを握りしめ、コンクリート床に大きくバツ印を書いた。真っ黒なバツ印はすぐに雨に流れて形を変えていった。






20/06/06~ #ペーパーウェル04
お題「文房具」
不可村 天晴 @nowhere_7