しあわせになれない Ver. Pink





 私には姉がいる。彼女はものを見分けることが苦手で、具体的にいうと、ペガサスとユニコーンの区別がつかない。姉はとても穏やかで他人に好かれるいいひとなのだが、こと、ものを見分けるということに関しての才能は欠落していた。勉強も得意ではなく、似た何かと何かを取り違えるということは日常茶飯事だった。
 子どもの頃の私たちはとても貪欲で、常に娯楽に飢えていた。雀の涙ほどの小遣いを、私たちは近所のデパートの屋上遊園地に入るために使った。私たちの小遣いは、たったひとつだけアトラクションに乗れる、ぎりぎりの金額である。私たちはいつも、同じ箇所をぐるぐる回る回転木馬に乗っていた。近所のデパートにある屋上遊園地は回転木馬を置いていて、その回転木馬にはおかしなことに、馬ではなく亀とか、獏とか、蝶々とか、ちいさなドラゴンとか、回転木馬と称するにはあやしいものがたくさんおり、私たち姉妹はそれが好きだった。回転木馬にロマンチックな魅力を感じていたのかというと、たぶん、そうではなかったのだろう。姉はどうだかわからないが少なくとも今の私はそうだと言い切れない。しあわせなものの象徴としてデパート、遊園地、回転木馬があって、彼らがほんとうにロマンチックかどうかはさしたる問題ではなく、それらを追いかけてしあわせなふりをできるか、思い込めるかどうかが重要だったのだと思う。天国にいると信じ込めたなら地獄にいてもしあわせなのだ。私にはものの見分けがついていたから、しあわせになるために、必死でしあわせなふりをした。なので結局とてもしあわせな子どもだった。
 私はかならずペガサスを選んだ。手垢で汚れた桃色の体は、有象無象のなかでいちばん回転木馬らしく見えた。体を串刺しにされた有翼の馬に乗る私の隣で、姉はよく、間違えてユニコーンに乗っていた。特徴を教えても、姉はすぐにそれを忘れてしまう。位置まで忘れるのだから筋金入りである。いや、ほんとうは忘れていないのかもしれない。気にしていないだけなのかもしれない。姉にとってはペガサスもユニコーンもさしたる違いがなく、彼女は何もかもどうでもいいのかもしれなかった。私は姉が損をしているような気がして、いつかとりかえしのつかない間違いが起こるようで恐くて、何度も姉にものを見分けるちからをつけるように頼んだが、その望みは叶わなかった。私が手をとってペガサスまで導いても、姉は翌日にはもう間違えた。姉は「ペガサスはかわいい」と言いながら、満面の笑みでユニコーンに乗っていた。
 姉は明日、結婚する。学生時代にたくさんのひとに愛された彼女が伴侶に選んだのは職場の同僚だった。姉のほうからプロポーズをしたという。相手の男性は姉と同じようにおっちょこちょいで、おおらかで、いい人間だった。最後に訪ねたとき、ペガサスだっけ、ユニコーンだっけ、と言いながら、ふたりはウェルカムボードにイラストを描いていた。翼と角のある馬の絵だった。私はというと、姉の笑顔に何も言えなかった。お姉ちゃん、まちがえてないよね、だいじょうぶだよね。何度もそう言いかけて、しかし、実際に口に出すことはとうとうできなかった。見分けることが苦手な姉は明日、結婚する。






19/11/30~12/01 #ペーパーウェル03
「翼・羽のある生き物」
不可村 天晴 @nowhere_7