帰ってこない、とわかることがある。たぶんもうとっくに限界を迎えていて、いつそうなったとしてもおかしくない状態でそれでも何もないふりで必死に毎日をいなしていただけで、それはいつもそこにあったのだ。私は高架付近の小さなアパートの二階にある自分の部屋で、持ち運びしやすい中古のノートパソコンの前、ずっと楽しみにしていたアイドルのイベントのチケットを予約するまさにその瞬間、回れ右をするようにブラウザを閉じる。帰ってこないのがわかるからだ。帰れないのではなく帰ってこない。それはなにもイベントに感激して現実に戻れないという精神的な話ではないし、かといって開催地がかなり遠いという単純な距離の話をしているのでもない。私はもともと一人旅に憧れがあるものだから、どこか知らない土地へいくバスや電車をぼうっと眺めたりもすることだってある。私とは違う方向へ進む乗り物は魅力的である。雑誌のあおり文もドラマも漫画も、学校に通っていたときの友人たちも会社で知り合った同僚も、金を使って逃げろ、と笑って私を唆す。ときには羨望をこめ、ときには呪いのように憎しみをこめて言う。つまり、ある朝とつぜん職場に向かう途中で行き先の違う電車に乗り、終着点まで行って一日そこですごす、そこは海でもいいしふるさとでもいいし南国でもいい、そのあとどうするか何も考えずにそういう逃避行をするのが心にいい自由なことなのだと、みんながそう思っているらしい。私ももちろんやってみたくなる。しかしそういう自分を想像しては、私はそれきり帰ってこないとわかるので、実行に移さずにやめる。何度もいうがこれは精神的な話でもないし距離の話でもない。放浪癖がどうという話でもない。私は私の手を離れて私の意識から消える、それがわかる。
 帰ってこないとふと気づくのは、アイドルのイベントやちょっとした旅行だけではなかった。地元にある妖怪が出るといわれている大きくて深い川とか、癒しの場として有名な底が見えない滝壺、巨大な遊園地のよくできた迷路とかよその国にある魅力的な密林、それらはほとんどアイドルのイベントや小旅行と同じものとして機能しており、私はたぶん一度ふれたら帰ってこない。それがわかるからどこにもいけない。
 しかしどこにもいけないというのもしゃらくさい話である。帰ってこなくていい。川や滝壺に落ちて構わない。それの何が問題なのだろう。私は私が私を守ろうとしているのを感じ、それがあまりにつまらなくてむなしくてよく地団駄を踏んで泣きそうになる。旅行雑誌を見ながら、またバス停でぼんやり佇みながら、いつの間にか本当に泣いていることもある。帰ってこない気がするから出掛けられないなんてただの怠慢、とつぜん旅行に行くよりもひどい逃避ではなかろうか。私は私にいらだつあまりに旅先で完全犯罪も企みかねない。そのうち私は私に突き落とされて川に落ちるだろうし、私は私の時計や、携帯端末や、ことによっては身分証や現金を現地で捨てる。そして私はそれを期待している。ほとんど予感に近いものである。それでも今日もその予感に蓋をして私は帰宅する。擦りきれている革の鞄をベッドに投げて、その重みでできたシーツのへこみを見つめる。警笛の音と共に部屋のなかに光と影が映る。今日も帰ってきてしまった。

帰ってこない 191222